【海上自衛隊】「必ず帰る」深海200mの約束 飽和潜水員が挑む圧力21倍 極限訓練の全貌
海上自衛隊「潜水医学実験隊」。
潜水士たちが、極限の環境で己の限界と向き合う訓練施設です。
この日、6名の飽和潜水員が挑むのは、2週間にわたる飽和潜水訓練。
深海を再現した密閉空間で、わずかなミスが命を奪いかねない。
外は穏やかな朝。
しかし、分厚い鋼の扉の向こうに広がるのは静寂に包まれた、極限の世界でした。
取材者として数多くの現場を見てきた私でさえ、この空気の重さに息を呑みます。
そこには、恐れを超え、仲間を信じ、訓練に臨む姿がありました。
深海に挑むダイバーたち。
その静かな闘いが、いま始まろうとしています。https://www.youtube.com/embed/iqiNHgRimvg?rel=0&wmode=transparent
海上自衛隊 潜水医学実験隊
横須賀市田浦に拠点を構える海上自衛隊 潜水医学実験隊。
ここでは、潜水医学や生理学、心理学、人間工学など、多岐にわたる分野の研究が行われています。
潜水員や潜水艦乗員の健康と安全を守ると同時に、飽和潜水員や潜水医官の育成を行っています。深海潜水訓練装置(Deep Diving System)
潜水医学実験隊が持つ複合型潜水訓練装置は、最大で水深450メートルの環境を再現可能です。
深海を想定した過酷な飽和潜水訓練を実施することができる深海科学の最前線です。
深海の守り人「飽和潜水員」
海上自衛隊の飽和潜水員は、潜水艦救難艦「ちよだ」や「ちはや」に乗り込み、深海で任務にあたります。
2023年4月に起きた、沖縄県の宮古島周辺で陸上自衛隊のヘリコプター墜落事故では、
海上自衛隊の潜水艦救難艦「ちはや」などに所属する飽和潜水員が投入され、水深約106mの海域で事故機の一部と搭乗員5名の遺体を発見しました。
飽和潜水員は深海という地球上最も危険な場所に挑む安全と命を支える“最後の砦”です。彼らが担うのは、人命救助、そして国防に関わる潜水艦の救難という、一瞬の判断ミスも許されない重大な任務です。
誰もがなれるわけではない「飽和潜水員」への道
飽和潜水員は、肉体的にも精神的にも極限の状態に耐えながら任務を遂行するプロフェッショナルです。
そのため、誰もがなれるわけではありません。
まず通常の潜水員として十分な経験と実績を積み、その中からさらに選抜された精鋭だけが、この道に進むことを許されます。
並外れた潜水技術、強靭な肉体と精神、厳格な健康診断・適性検査、そして高い知性と判断力。
これらすべてを兼ね備えた者だけが、飽和潜水訓練の扉を叩くことができます。
緊迫!水深200メートルの飽和潜水訓練に密着
水深200メートル――
この深さは、地上とは全く異なる、想像を絶する重圧が支配する世界です。
地上(1気圧)の約21倍、つまり1平方センチメートルあたり約21kgの力がのしかかります。分かりやすく例えるなら、体の表面積1平方メートル(大人の体全体とほぼ同じくらい)に、およそ210トンもの圧力がかかるということです。
このような環境は、生身の人間にとっては即座に死に至る極限の領域です。
訓練とは言え、常に生命の危険と隣り合わせであり、その覚悟は計り知れません。
訓練の直前、6名のダイバーが静かに電話を手に取りました。
愛する人に「行ってきます」と短く伝えます。
ある人は便箋に向かい、手紙をしたためていました。
その姿を見つめながら、私も息を呑みました。
「もしもの時、残せるのは言葉だけなんだ」
その現実が胸に刺さります。
覚悟を決めた飽和潜水員たちを前に、私はかける言葉もなく、ただただ、無事を祈るばかりでした。
いよいよ深海へ、加圧開始
減圧室(DDC)
ダイバーたちが減圧室(DDC)に入り、分厚い扉が閉められると、関係者や筆者も息を呑みます。
「加圧始めたー!1メートル・・・3メートル」
飽和潜水とは、深海で長時間作業するための特殊な潜水方法です。
作業深度の圧力まで慎重に加圧していきます。
彼らの身体は、今、超高圧の世界へと向かっています。主監視制御盤:交話員は異常がないかを内部と連絡をとりながら進めていく。
同時に呼吸ガス(主にヘリウムと酸素の混合気「ヘリオックス」)を体に適応させることで、体内が高圧環境に「飽和」(体内に呼吸ガスが溶け込む)した状態になります。
体が飽和状態にある間は、同じ深度の水中で作業ができます。
作業後の大幅な減圧時間を取る必要がないため、長期間にわたる深海作業を効率的に行うことができます。
海上自衛隊では水深450mの飽和潜水に成功しています。
逃げ場のない重圧
しかし、この飽和潜水には決定的な制約があります。それが「減圧」です。
作業が全て終わり、地上に戻るためには、体内に溶け込んだ大量のガスをゆっくりと排出する必要があります。この減圧プロセスには、数日から一週間以上もの膨大な時間がかかります。
ダイバーは、一度深海と同じ圧力環境に入ると、任務が完了し、減圧を終えるまで、「地上にはすぐには戻れない」という現実と向き合うことになります。
密閉された空間で過ごしながら、過酷な任務を遂行します。
ロックアウト――閉ざされた世界から海へ
実際に水中で作業を行うのは2名のダイバー、ダイバーの作業を支援するCL長の3名体制で臨みます。
深海圧に「飽和」したダイバーたちは、いよいよ深海へ向かいます。
減圧室(DDC)から移乗室(CL)を介し、水槽部(ウェット・ポット)へと移行します。
ヘルメットだけで約15kg、総重量が60~70kgにもなる重装備を身に着けます。
水槽内は、実際の作業深度と同じ高圧状態です。
高圧を維持したまま海中へ出る――ロックアウト。
このロックアウトの瞬間が、ダイバーにとって、最も緊張するのだとか。
水中での訓練
水中で課されるのは、フランジや配管を繋げる配管組立作業など、高度な技術と集中力を要する作業です。
2名のダイバーは連携をとりながら、手際よく作業していきます。
そのほかに、水中作業能力テストなどを課し、高圧下での認知能力や脳神経系の働きを評価します。これは、極限環境でも地上と同じレベルで思考や記憶ができているか、作業能力が維持できているかを調査・研究するためです。
今回は水中遊泳訓練も実施しましたが、毎回欠かせない訓練というわけではありません。
重装備を背負いながらも、深海で効率的な動きを維持するための、強靭な筋力と技術を磨き続けます。
飽和潜水で使うのは、私たちがよく見る「酸素ボンベ」とは少し違います。
高圧下で長時間作業するため、CL室からからリアルタイムでガスを送り続けます。
「高圧下ではガス供給量が一定のため、息が上がってしまうと過呼吸のようなリスクがあります。一度息が上がると元に戻すのが困難になります」と、ベテラン飽和潜水員でさえも話します。
深海では呼吸がうまくいかず、パニックに陥るケースもあるとのこと。
飽和潜水に関する知識を身につけていても、実際の現場では予期せぬ状況と向き合うことになります。
暗く冷たい水圧の世界で、ほんのわずかな判断ミスが命取りになるため、精神の安定こそが最大の武器です。
だからこそ、ダイバーたちは訓練の中で「呼吸を整える技術」や「自分を冷静に保つ習慣」を体に染み込ませて、極限状態に挑む準備を重ねていくのです。
圧力21倍の世界:深海を支えるヘリウムの力
「『醤油を取って』と頼んでも、うまく聞き取れなくて『塩』が来るかもしれない。」
これが笑い話で済まないのが、現場の現実。
地上の約21倍という強い圧力がかかる特殊な環境で用いられるのは、酸素とヘリウムを混ぜた「ヘリオックス」という混合ガスです。
ヘリウムは、深海で意識がもうろうとする「窒素酔い」を防ぐために欠かせません。
しかし一方で、声が高くなる、音の聞こえ方や体の感覚が変わるなど、五感に影響を与える性質もあります。
ヘリウムは、声帯の振動を変え、声を甲高い「ドナルドダックボイス」に変えてしまいます。
甲高い声と、常に響く機械の騒音(DDC内の「ゴーッ」という雑音)が重なり、意思疎通が難しくなります。緊急時に一瞬の判断を誤らないため、普段から意識してゆっくり、正確に話す訓練を重ねます。チームワークの根幹が、声一つで試されているのです。
深海でのカレーの味は?
海上自衛隊では曜日の感覚を取り戻すために、金曜日にカレーライスを食べる習慣があります。
飽和潜水訓練中も、カレーライスが提供されます。
深海200メートルでのカレーの味は?
内部のダイバーの声とジェスチャーに注目してご覧ください。https://www.youtube.com/embed/ueVOLV_-7Co?rel=0&wmode=transparent
飽和潜水訓練を何度も経験したベテランダイバーは、高圧下で食べる米の食感を「ガムを食べている感じ」「モキュモキュする」と表現します。
普段のふっくらとした食感は消え、弾力のある塊のように感じられます。嗅覚も鈍り、食事の匂いさえ感じにくくなるそう。金曜日はカレーの日
海上自衛隊の伝統である「金曜日のカレー」の味さえも、異世界の味覚に変わってしまうのです。
閉ざされた空間での試練:体調管理と心のバランスを守る戦い
「あるダイバーが訓練中に指のササクレを剥がしたら、菌が爆発的に繁殖し、指がパンパンに腫れ上がりました。そのダイバーは、出た後に手術で切開しなければなりませんでした」
飽和潜水員たちが約2週間、寝食を共にしながら過ごす減圧室(DDC)の中では、衛生管理は最重要課題です。
高温・高湿度・高圧は、細菌にとって“理想的な温床”であることを示しています。
ひとりが風邪をひけば、密室では瞬く間に全員に広がることも。
たった一人の体調不良が、数週間にわたる訓練計画全体を左右してしまうのです。
深海での戦いは、圧力だけではありません。
目に見えない微生物、そしていつ何が起こるか分からない閉鎖環境のストレス。
その両方と向き合いながら過ごす日々こそ、飽和潜水訓練の本当の過酷さなのです。
深海がもたらすもう一つの試練:高圧神経症候群(HPNS)
大気圧下に戻るころには正常化するものの、加圧環境下では「すごく不安になって、物事が手につかなくなった」とあるダイバーは話します。
高圧下でヘリウムを多く含む呼吸ガス(ヘリオックス)を吸うことによる神経の過剰反応により、HPNS(高圧神経症候群)が現れ、精神的な負担となるケースもあります。
「慣れない環境で、呼吸もしづらければ関節も痛かったです。一番後輩だったため『誰も頑張れよ』とか、言ってくれる人がいませんでした」
初めての飽和潜水訓練で精神的に追い詰められた時、孤独と苦痛の中、「日記を書いて乗り越えた」と話します。
「どこまでが自分の限界なのか、誰にもわからない。だからこそ、冷静さを失わないようにする。それが一番難しい」
深海の静けさの中で、自分自身の神経と心との戦いでもあります。
またストレスがかかる環境だからこそ、「普段からコミュニケーションを欠かさない」ことが何よりも重要。
互いに声をかけ、相談しやすい雰囲気を作っておくことが、いざという時にお互いを支え合うセーフティネットになるのです。
深海の守護者たち——日本と未来をつなぐ絆
静かな海に、朝日が差し込む――。
その水面の下で、私たちの知らない戦いが続いています。
高波を越え、嵐に立ち向かい、
深海では、限界を超える潜水士たちが命を懸けて任務に挑む。
遠い洋上では、護衛艦が昼夜を問わず警戒を続けています。
海上自衛隊。
それは、日本という島国の「命の線」を静かに守り続ける人々。
彼らの任務は、防衛ではありません。
海難救助、国際協力、災害支援――
命を救い、平和をつなぐために、海の最前線で動き続けています。
そして、その中でも極限の環境に挑むのが飽和潜水員。
高圧の世界、閉ざされた空間、そして常に隣り合わせの危険。
それでも彼らは、仲間を信じ、絆を胸に、再び深海へと潜っていきます。
――見えない場所で、国を支える者たちがいる。
その静かな覚悟こそ、日本の平和を支える真の力なのです。
海の彼方で任務を果たすすべての隊員たちに、
深い感謝と敬意を込めて。
【関連情報】「まさにこの世界」——映画『ラスト・ブレス』
取材の中で、ある現役の飽和潜水員が静かに言いました。
「まさに、この映画の世界です」
実際に北海で起きた奇跡の生還を描いた映画『ラスト・ブレス』。
深海で酸素が尽き、通信が途絶えた中、ただ一人取り残された飽和潜水員が生き延びるまでの90分を描いた実話です。
深海での孤独、極限の密室における精神的重圧、そして決して諦めない仲間との絆を描き、現役の飽和潜水員からもそのリアリティを高く評価されています。
この過酷な訓練に挑む海上自衛隊のダイバーたちの覚悟、そして生還への想いをより深く知ることができます。
【編集後記】
貴重な取材をさせていただき有難うございました。
飽和潜水員の方々が極限の環境下で、いかに高度な技術と、信頼関係を生命線としているかが伝わってきました。閉鎖された空間、変わる五感、絶え間ない危険。それでも、プロフェッショナルとして任務を全うする姿に感動しました。
このような厳しい任務に日々臨む海上自衛隊の皆様を心から応援しています。任務を遂行する隊員の皆様が無事で、守られますように日々、願っています。
海上自衛隊 潜水医学実験隊 公式HP
海上自衛隊 公式HP
取材・校正協力:海上自衛隊 潜水医学実験隊様

